誰だって波瀾爆笑

爆笑とはいかないけれど

『波乱万丈』という言葉がふさわしいと

友達からもよく言われました(汗)

上には上がいるとは思いますが…

『誰だって』

その名の通り

平穏な人生なんて誰一人いないですよね




そもそも生まれた時からかも(笑)

自分を妊娠した母親が海水浴中に

海岸で転んで破水し

予定日よりも早く生まれてしまったそうです(汗)

生まれた時の体重は2020gでした


その影響か

小さい頃は喘息持ちでした

結構辛かったですね⤵

喘息が出た夜は

横になるのもしんどかったので

サマーベットを用意して

喘息が辛くなく、かつ眠れる角度を 

調整して寝てました(泣)

あのグーニーズの主人公が持ってた

喘息用吸引器は必需品でした



さらに鼻血もすごかったですね

なにかというと鼻血出してました(笑)

しかしながら

幼稚園では、かけっこで1位をとってましたね(驚)



幼稚園を卒業するぐらいまでは

一軒家に住んでましたが

ギャンブル狂の親父のせいで

一軒家を売り払う事に(失笑)

以後は古い汚い
3Kのアパート暮らしに

小さい私は何もわかりませんでしたけどね(笑)

貧乏ながらもファミコンだけは
買い与えてもらい

自分の家は友達の溜まり場に(笑)

ファミコンにハマっていたので

部活などやるわけもなく

運動音痴かと思いきや

学年の縄跳び大会で

240人で一斉に飛び

飛べなくなった人は脱落というルールで

最後の1人になるという(笑)

運動神経だけは良かったようです

(球技より体操系でした)


他に小学校の思い出というと…

1年間だけ書道の教室に通ってる時

書道大会でクラスで2人しか選ばれない

書生会賞というのになったぐらいか

今は字はむっちゃ汚いですけどね(笑)

あとハマっていたのは

ドッヂボールですかね

給食あとの休み時間はいつもやってました(笑)


中学は小学校から1キロぐらいの

中学校に普通に進学

中学もまた部活には入らず帰宅部(笑)

1年の時、部活ではなく

週1回のクラブ活動てのがあって

それの太極拳クラブてのに入ってました(笑)

2、3年は特に何もしなかったが

身長はグングンのび

クラスの中の

ポジションランクでも

上位5人に入るまでに(笑)

3年の体力測定で

垂直跳びの新記録を出し

バレー部にスカウトされた事も(笑)


一番学校で楽しかったのはこの頃ですね

高校は
千葉の極悪高校(笑)

ビーバップを地でいくような高校でした

受験した生徒全員受かったなんて噂も(笑)

自身も注意されない程度の

長ラン着てましたね

40人のクラスが

卒業する頃には
退学の嵐で
20人ぐらいになってるそうな(笑)


しかしこの学校の思い出は1年の9月まで

夏からバイトを始めたんですが

うちは貧乏だったので

母親に『学費は自分で払ってくれない?』と

姉が私立の高校に行ってたんで

家計がしんどいと(汗)

なら働くよと、やけになるわけじゃなく

中退することに

バイトは客の前で焼くステーキハウス

そこで9月からフルで働く事に

そこのチェーン店で

1年ちょっと働きましたが

転々といろんな店舗で働かせられ

今調べたら12店舗あった店が

5店舗になってました┐(-。-;)┌

まぁ25年も前の話ですからね(汗)


最後の店で
よく来るカップルと仲良くなったんですが


次に働いたのは反対口のステーキハウス(笑)

でそのカップルが
2人とも社員で働いていたという(汗)

そこは大手チェーン店なのだが

その店は全国で4位の繁盛店

前のステーキハウスでは

チャラチャラと遊びながら働いていたが

ここでは半年間みっちり働き

半年で70万貯金したのだが…


夏によくも悪くも

親友との運命の再会を果たす(笑)

この時が17歳

1人は幼稚園の同級生
1人は小学校の同級生
1人は中学校の同級生(笑)

3人とも全員が全員顔見知りで

ちょいちょい別々で遊んではいたが

この日は何故か

4人が引き寄せられるように

集まった事が

自分自身でも不思議な感覚でした(汗)


その日は久しぶりにあったにも関わらず

よほど楽しかったのか

朝までオールナイト(笑)

その日から
ほぼ毎週遊ぶ事に

そのおかげで貯金はゼロに(-""-;)

この夏から

仕事は働いたり働かなかったり(笑)

合コンもめっちゃやってました

悪い事はしなかったけれど

カラオケ、ボウリング、ビリヤード

ゲーセン、ドライブは数知れず

泊まりで御宿5~6回

泊まりで奄美大島、葉山、榛名山

城ヶ崎、神津島

スキー3回

伊豆でバーベキュー

霞ヶ浦でバーベキュー

ハゼ釣り、クリスマスパーティー

鉄板焼パーティー

青春の1ページだったかもしれません(笑)

しかしながら今は

その仲間たちも疎遠に

子供が出来るとなかなか難しいですね



前のR店にまともに就職する前に

働いた仕事は…

ステーキハウス×2
コンビニ
パスタ屋さん
海鮮居酒屋
創作居酒屋
チェーン店居酒屋
仕分け工場×2
一斗缶工場
ホスト
ドライバー×2
引っ越し屋
茶店
製本所
クーラー取り付け
建築現場の作業員
パチプロ(笑)

こうゆう経験したから
器用貧乏なんでしょうね(笑)

まぁ振り返ってみると
結構転々としてますね~(汗)

17歳から23歳までは

はっきり言って適当に生きてました(笑)

一度は挫折(寝たきり生活)を味わった男が

オーナーになれるのだから

人生て不思議なものですね(美空ひばり風)


まぁそれは置いといて(笑)


23歳の寝たきりになるまでの

大きな出来事と言えば…

ホットドッグという雑誌にのりました(笑)

新車を彼女とドライブして

感想を言うという

見開き2ページの特集でした


あとはバンドを組んで

ライブを2回やったこと(笑)

2回とも40~50名ぐらいですけど(汗)

ドラムだけ同じやつで

あとはバラバラの面子なんですよね(汗)

なので2つのバンドで

1回ずつやったことになります

しかも最初はギターで2回目はベースでした


まぁ結局、曲を作る才能は無く

プロは早々に諦めましたけど(泣)

でもライブ2回やったことは
すごいいい経験でした


あとは事件というと

バンドの練習の帰り

車で駐車場から出るときに

ガソリンタンクを縁石にぶつけ

タンクに穴が開きガソリンがダダ漏れ(笑)

ガソリンを撒き散らしながら

走ったが(超危険行為(笑))

1キロぐらいで

プスンプスンと停止(笑)

とりあえず邪魔にならないように

河川岸まで2人で押すことに(汗)

5キロぐらい押したかな~(笑)

結局そのまま廃車に⤵

今考えれば簡単に直せましたよね

タダでもらった中古のサニーでした

やっぱり1台目は廃車になるんですかね


ちなみに


死にそうになった経験は

夏の海で1回

男2人で浅瀬で泳いでたら

浅瀬と思ってたら

気づいたら、そこそこ深くなっていて

足がつかない❗

しかし目の前にいるカップルは

膝ぐらいまでしか海に浸かっておらず

普通に立っている

なんだこれと思った瞬間

前のカップルも波に飲まれてしまった

あとからわかったのだが

離岸流だったのだ

自分達が泳いでいた所はボッコリと

砂が削られていた


もがけどもがけと前に進まない

友達は近くにいた浮き輪で浮いていた

見知らぬカップルに難を逃れて助かったが

私は顔をつけてクロールでの

本気泳ぎでも、抵抗及ばず

ヤバイと思いくるりと向きを変えた次の瞬間

離岸流から外れ

ものすごい勢いで海岸のほうに戻ったのだ

本当に死ぬかと思った(笑)


ちなみに

私、結構芸能人に会った事があります

全然関係ないけど(笑)

プライベートだと

お台場で橋本真也とすれ違った事があります
(笑)

曙も犬の散歩してるときに見かけて

サインもらいました(笑)

駒込駅だと普通に歩いてるボブサップ見ましたし

マギー司郎も店の近くで見ました(笑)

セインカミュもディズニーランドで見かけました

両国駅松崎しげるも見ました

新橋の喫煙所で高田文夫と一緒タバコ吸ってました(笑)

前の店で飲みに来たのは

魁皇安達祐実、佐野四郎、岸田今日子
橋爪功黒田アーサー

ロケしてるの見たのは
千秋、鶴瓶、有吉、井森美幸

残念ながら今の店には

誰も来てくれないんですよね(T_T)

テレビの撮影で使わせてほしいってのも

4回も話が来ましたが

★テレ東のドラマ
笑点の生中継
★アイドルのドッキリ番
★ネット広告

結局全部実現せず(悲)

縁があるのかないのかよくわかりません(笑)


あとは
独立の話以外で

印象に残ってるバイトと言えば

神田にある海鮮居酒屋ですかね

まさにバブルに乗っていたと思います

生きたイカの刺身1杯3000円
生きた平目の刺身1枚10000円
ウニ1箱8000円
インドマグロ刺3000円

バカバカ売れてました(笑)


あとはドライバーですかね

こういった仕事って言うのは

仲間意識が強いんですかね?(笑)

30人ぐらいいたんですが

団結力はスゴかったですね

ルート配送じゃなかったので

毎日いろいろな所に行けて

楽しかったです

正月は餅つきをしたり

夏はバーベキューをしたり

小型のバスを借りて20人ぐらいで

スキーに行ったこともありましたね

楽しかったものの

ここで腰を悪化させちゃったんですよね



とまぁざっくりとこんな感じ(笑)

恋バナもいろいろありますがね(汗)




あとは最後の話になりますが

母親が早くに亡くなった事ですかね…

そもそも両親は

私が19歳の時に離婚している

離婚してすぐは親父と暮らしていたが

寝たきりの時は母親と暮らしていた

結婚と同時に家は出たのだが



普段は健康診断なんか

しない人だったんですが

たまたましたところ

肺のあたりに黒い影が…



家系的にも癌になった人は

ほとんどいなかったのですが

黒い影は悪性の癌でした⤵

タバコは吸ってましたけどね


抗がん剤投与で髪の毛は抜け落ち

体も弱っていたが

ちょうどその時

自分の結婚式があり

なんとか頑張って

かつらで出席してくれました


2003年の10月に癌が見つかり

自分の結婚式が2004年2月

姉の結婚式は2005年の6月

そして亡くなったのは2006年の4月…

子供2人の結婚は間に合ったけれど

孫の顔を見せる事は叶わず

見つかってからわずか2年半で

亡くなってしまいました

築地市場の近くのガンセンターに入院し

一度は持ち直して職場復帰したものの

肺から喉に転移し

最後は頭に転移


最後の病院は

治療もせず治る見込みが無い方が

入院している

地元の暗くて汚い病院でした⤵

可哀想でしたが

他に入院させてくれる所が無いんですよね

最後、病院から電話があり

駆けつけた時にはもう意識が無く

最後の呼吸が止まるまで

手を握りながらずっと号泣していました


享年59歳でした


この時、自分は30歳だったので

さすがに神を恨みましたね


うちは貧乏だったし
親父もほとんど働いてなかった
私達子供が小さい頃は
ほとんど母子家庭のような感じで
昼間のパートもしていた

寝たきりの時も迷惑かけたし
私も治ってさぁこれからって時に
癌の宣告って…

親孝行らしいこと
ほとんど出来ませんでした(悲)


父親はこの時、ほぼ行方知れずで
最後に会ったのが21歳の時

母親が亡くなった事すらも
伝える事も出来なかった


母親が亡くなった2年後…


三郷市役所から

1通のハガキが届く

病床の父親が生活保護の申請をしていると

あなたは父親を

引き取りますか引き取りませんか?

というものだった

三郷に居たことも驚きだったが


答えはもちろん『ノー』だった

一応姉にも相談したが

姉も同意見だった


もちろん親父がいなければ

今の自分はいないのだが

母親の苦労をずっと見てきた訳で

母親が早くに亡くなったのも

苦労がたたっていないとは言い切れない


賛否両論あるだろうが

私の中では

21歳に最後に会った時から

父親は亡くなったものと思っている


私が寝たきりだった時も
母親が癌で亡くなった時も

そこに親父はいなかったのだから…


今は最愛の娘がいる

何があっても娘を守るし

死ぬまで愛し続ける

だから私は絶対に

子供から突き放されるような

父親にならないと断言できる

今も辛いこともいっぱいあるが

娘がいなかったら

間違いなく投げ出しているだろう

話があっちこっちに飛んでしまい

失礼しましたm(._.)m

色々ありましたが

今は今で幸せなのかな?…( ̄ー ̄)